現代にも通じる恬憺虚無真気従之

 平成15年9月,私はある講演を聞くために川崎市を訪れました。演者は謀研究所のK先生。漢方の歴史研究の第一人者です。その日,私は一冊のK先生のご著書を携えていました。

 早めに到着したので会場周辺を散策していますと,同様に風景を楽しみながらこちらへ歩いてくる男性がおられます。これから講演を行う予定のK先生でした。わたしが図々しくも声をお掛けすると気さくに応じて下さり,その後会場内でいろいろなお話をうかがうことができました。さらに記念写真の撮影,そして私が持参した先生のご著書へのサインと,厚かましい私の要望に快く付き合って下さいました。

 先生はサインをする際,一言添え書きをされました。「恬憺虚無 真気従之(てんたんきょむなれば しんきこれにしたがう)」という漢文。「『素問(そもん)』の言葉ですね」とだけ言い添えて下さいました。

 『素問』とは約二千年前に書かれたとされる漢方の基礎となる書物の一つで,体の仕組みや養生法,治療法などが説明されています。その『素問』の最初の篇に「恬憺・・・」は登場します。川崎から帰宅した私は,早速その意味を確認しました。

 恬憺とは落ち着いていること,虚無とは貪欲な心や邪念を抱かないことです。そのような心持ちや振る舞いを努めることで,心身の気(気力・体力)が調和し,病邪を退けるということです。さらに,衣食や人間関係において素朴で誠実であり,恬憺虚無をわきまえていた古代の人々は百歳を超えることができたともあります。二千年前の人々にとっての古代の人々です。中国の歴史の奥深さを実感すると同時に,ストレス社会と言われる現代にも通じる内容で,実に興味深いものです。

 日常生活ではストレスもありますし,欲の出ることもあります。しかし時にはストレスがバネになって向上したり,欲が原動力となって目標を達成することもあります。適度なストレス,適度な欲というものが量れるとすれば,もっと快適な人生を送れるのかもしれませんが,そこが難しいところですね。

 そもそもK先生が私に「恬憺・・・」の言葉を書いて下さったのは,講演前の先生に厚かましく接する私に対して,もっと謙虚になるようにというご教授だったのかもしれません。

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